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コラム

2022-11-15

SCALE PR ACADEMY 第3期「閉講式」

 
広報・PRパーソンが、業界の第一線で活躍する講師陣から継続的な学びを得ることができる「SCALE PR ACADEMY」。

2022年4月に開講した「SCALE PR ACADEMY 第3期」の締めくくりとして、去る10月27日には「閉講式」が開催された。

各回の総括とともに、SCALE独自のPRコンピテンシーを監修した國學院大學 観光まちづくり学部 准教授の河 炅珍(ハ キョンジン)氏を招き、本田哲也(SCALE Founder/PR ACADEMY学長)とのキーノート&トークセッションを行った。
 

「過去」は今のPRの可能性を問う上でひとつの参照軸になる

 
第1部は「広報・PRの原点 -1950年代に「鍵」がある-」をテーマに河氏が登壇。

まず、なぜ今から70年前の社会に広報・PRの原点となる鍵があるのかについて、河氏はE.H.カー(イギリスの歴史学者)の残した言葉「歴史は、過去と現在との対話である」を取り上げてこう説明した。
   
「E.H. カーの著書『歴史とは何か』を翻訳した清水幾太郎は、過去は、現在と分離されたものではなく、まさに私たちが現在を生きる上で意味があると話しています。E.H. カーや清水幾太郎の考えに基づいて新しい時代のPRを考察してみると、過去は今現在のPRの可能性を問う上で、ひとつの参照軸になると思っています」

時代の変遷とともに社会情勢やメディア環境、企業に求められる価値が変わってきたことで、PRの新奇性あるいは従来と異なる広告やマーケティングのあり方が問われている。

だが、PRの過去や原点について興味・関心を持つ人は少ないと言えるのではないだろうか。

河氏は自著『パブリックリレーションズの歴史社会学(2017、岩波書店)』の第5章「戦後日本におけるPRの移植と受容」で触れている内容を中心に、以降のセッションを展開した。

「戦後日本におけるPRの主体は大きく『政治的担い手』と『経済的担い手』に分かれました。戦前もパブリックリレーションズは紹介されていましたが、どちらかというと戦争勝利のためのプロパガンダと誤解され、断片的な理解にとどまっていました。今でいうPRが本格的に導入されたのは占領期に遡ります。各都道府県に対してGHQ(連合国最高司令官総司令)がパブリックリレーションズを行う組織の設置を求め、サゼッション(文書)を送ったのがきっかけでした」

当時の自治体からすれば、GHQから提示されたPRという言葉自体が不明瞭なもので、各行政ごとに「広報」のほかにも「広聴」や「公聴」、「報道」などPRの訳語が乱立する状況だった。

行政民主化を推進する上でアメリカ社会をモデルにPRを根付かせようとしたGHQの狙いとともに、情報を住民に広く知らせるための「広報」、また、住民の意見を広く集めて聴く「広聴」が日本型PRを指す言葉として使われるようになったという。
 

幅広い可能性が期待された1950年代の「経済とPR」

 
一方、占領政策は、産業界にも大きな影響を与えた。労働組合の結成や財閥解体、証券の民主化などが行われ、経済的担い手にとってさまざまな問題・課題が連鎖的に浮上していく。

こうした状況を打破し、「経済とPR」を推進していくために①経営者団体 ②証券業界 ③マスコミ・広告業界が立ち上がったのだ。
 

 
「これらの3つの主体は相互依存的な関係を有していますが、特に日本の『経済とPR』において、初期のパブリックリレーションズ運動を主導したのが証券業界です。証券業界は、GHQの協力を得て証券民主化運動を全国的に展開していきました。その中で際立ったのが野村証券の社長だった奥村綱雄で、経営と社会の連帯感を生み出すため、パブリックリレーションズの啓蒙に熱心に取り組んでいたのです」

電通を中心に広告業界もパブリックリレーションズの普及に積極的に取り組んだ。

1947年代表取締役社長に就任した吉田秀雄は「商業放送(テレビ)の時代が来る」という先見性を持っており、電通の事業体制の中でPRを重要部門においた。

さらに、官庁や金融機関、新聞社などと連携し、日本広報協会(PRISA)を発足させ、PR教育に注力するなど、PRを軸とした広告業の拡大を図った人物である。

「PRを軸として広告業を推進する『電通マン』たちが活躍したわけですが、大衆消費社会が到来した頃には『PRは新時代の広告』という考えが強くなり、『PR広告=企業広告』のように捉えられるようになりました。高度経済成長のなか、、広告主はもちろん、豊かさを求める消費者や市場に応える必要性からPRは広告の一部として再定義されるようになったのです」

河氏は最後にセッションのまとめを行い、第1部をクロージングした。

「PRは占領期から1950年代にかけて経営者や連合組織、行政担当者、知識人などから注目され、幅広い可能性を持っていました。『PR=プロモーション』や『PR=変則的な広告』とよく誤解されますが、当時のPRは、商業主義に収まる内容ではなく、修正資本主義の根幹や民主主義社会と深い関連性を持っており、単なる広報や宣伝を超えた機能が期待されていました」

また、「パブリックリレーションズという言葉は何か」を説明する当時の議論の中で出てくるマネジメントやヒューマン・リレーションズ、CSRなどのキーワードはまさに「現在の企業体、組織に求められる姿勢と非常に密接している」と河氏は続ける。

戦後の激変する社会情勢のなかで浮上した、さまざまな問題や課題を解決するために導入されたコミュニケーションがPR(パブリックリレーションズ)であり、「ポスト消費社会を迎えた現在、今回取り上げた1950年代の動きは今後、PRが目指すべき方向性を示している」と河氏は述べた。
 
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古田島大介

ライター
2014年2月に「The life always new」をコンセプトにCINDERELLAを創業。ジャンルに問わず、キュレーションメディアやSEOライティング、タイトルワーク、記事ネタ出しなどに携わる。 最近では取材ライターとして国内外の観光スポットやイベントに足を運んだり、企業ブランド・サービスのインタビュー取材を主に従事。 またSNSや繋がりのあるPR会社から送られるプレスリリースをもとに、執筆依頼をいただく場合もあり、活動は多岐にわたる。 モットーはメジャーからアンダーまで足を運び、現場で知ること。ビジネス、旅行、イベント、カルチャーなど興味関心の湧く分野を中心に社会のA面B面を深堀していく。
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